分からない、ということが分かるのが楽しい
子どもの頃、「どうして学校の授業は教科書に書いてあることをわざわざ声に出して読んだり、黒板に書き出してそれをノートに写させる、なんてことをするんだろう。」とずっと疑問に思っていた。
自分で教科書読んで、分からない所だけ質問したりノートにまとめたりすれば良いのに、皆が同じスピードで同じことをするのって非効率だなって。
でも実際は授業中に先生の話を聞かずに教科書読んでたり、黒板とは違うまとめ方をしていたり、違う内容を勉強していたりすると怒られたり、たとえテストで高得点取っても成績下げられたりする。
知識と理解を深めることと、集団における協調性を持つことは違うのに、一緒くたにされて非難されて、つまらなかった。
大人になってもその考え方はあまり変わってなくて、「何かを学ぶにあたり、本に書いてあることや、自分が既に知っていることの範囲内でしか話せない人はつまらない」と思っているので、仕事や趣味関連のセミナーや講義等を受けてもがっかりすることのほうが多かった。
でも最近、今まで自分が不得手としていた分野を勉強してみることで、その考えが少し変わってきた。
たとえば、この本。
今まで哲学とか倫理学をまともに勉強したことがない私には、文章は読めても内容を理解するのにすごく時間がかかる。
おすすめしていた人が概要やポイントを教えてくれていなかったら、数ページで挫折していただろう。
ブログのカスタマイズも、ググってコピペするだけのはずが上手くいかないし、メイクも雑誌を読むだけでは結局どれを買って何をすればいいのか選べない。
なるほど、よく分からん。
分からないと、「そんなことも知らないなんてw」と馬鹿にされているような気がして、余計に関わりたくなくなる。
「私には、これまでもこれからも必要のない知識です!」と言い切ったほうが楽だし格好がつく。
でも、そこから一歩踏み出して誰かに教えを乞うたり、色々調べてみたりすると、世界が広がって面白いことに出会えたりする。
今まで「いちいち人に聞かんでも本読めば分かるやろ」という考えだったんだけど、哲学とかプログラミングとかメイクとか、専門外のことは文章読めてもさっぱり理解できんね。
— にゃんす (@nyansu_nyan) 2018年9月2日
これはつまりどういうことなのか、何が自分にとって必要なのか、要約と取捨選択が難しい。
だからこそ教えてくれる人は貴重。
知らないことは恥じゃない。これから知ろうとすれば良いだけ。
— にゃんす (@nyansu_nyan) 2018年9月2日
学歴よりもこの“学力”を大事にしたい。
分からない、だから知りたいと思って行動する。
大人の知力体力経済力人脈をもってして、子どもの頃以上に無邪気な好奇心を全力で満たしたい。