割れたカップと思い出し怒り
先日、10年近く愛用していたカップを割ってしまった。
ぼんやりと考え事をしながら洗い物をしていたせいで、ついうっかり落としてしまったんだけど、このときは過去に人からされた理不尽な仕打ちに対してイライラをつのらせていた。
そんなことをしても、現在や未来が変わるわけでもないのに、時々そんな思い出し怒りにとらわれてしまうことがある。
カップが割れる大きな音とその後の処分の手間は、その思考を中断させるのに大いに役に立った。
もしも、こうありたいと願う理想の未来があるとすれば、その未来で感じているであろう感情と同様の感情が得られるような体験を選択していくことが大事だと、自己啓発関連の書物などにはよく書かれている。
過去の不幸を嘆いて、その負の感情を追体験するのは、全く真逆の行動である。
長年連れ添ったカップに対する後悔と懺悔の念は、思い出し怒りへの気付きと手放しへと形を変えて、自分の中にそっと置いておこうと思った。